超攻速ガルビオン
1984年2月からテレビ朝日の金曜夕方5時半から放送
私が30歳の時の作品です。
いろんな事があって22本しか放送されなかったこの作品が、30年近く経ってからブルーレイで発売されました。
制作していた国際映画社すでに倒産してしまったので、まさかこんな形で再会するとは思いませんでした。
この作品の前に私は「ななこSOS」という吾妻ひでおさんの作品をやりました。
初監督作品です。
その後、この作品の監督の話しが来たのですが、私はロボットアニメが苦手と言うか・・・あまり興味が無かったものですから断ってしました。
タツノコプロでもずっとタイムボカンシリーズのようなギャグアニメの演出をやっていましたし、当時スタジオぴえろで制作していた「まいっちんぐマチコ先生」の絵コンテとか、「ななこSOS」の前作「コロコロポロン」の絵コンテなどもやっていたので、ギャグアニメは得意なのですが、シリアスなドラマは苦手でした。
しかし、当時のプロデューサーが「この作品の後にしぎのさんの好きな作品を必ずやってもらいますから」などと言うので、半分仕方なくやり始めたような感じです。
でも、やってみるとシリアスなドラマも面白いもので、作品世界に徐々にのめり込んで行きました。
そんなわけで、打ち切りが決まった時は落ち込みました。
その後も、いろんな事で落ち込むわけで・・・これが記念すべき最初の落ち込みですね。
しかし、30年経ってブルーレイになるわけですから・・・嬉しい事です。



 小学生の頃から漫画ばかり読んでいた
少年マガジン、少年サンデー、ぼくら、少年ジャンプ、少年キング、COM、ごん、ガロ、

兄と弟は少年サンデー派だったが、私はなぜか少年マガジン派
ちばてつやの「ちかいの魔球」「紫電改のタカ」「ハリスの旋風」「あしたのジョー」
赤塚不二夫の「おそ松くん」「天才バカボン」森田拳次「珍豪ムチャ兵衛」「丸出ダメ夫」桑田次郎「8マン」石森章太郎「怪傑ハリマオ」「となりのたまげ太くん」「幻魔大戦」川崎のぼる「巨人の星」
一峰大二「黒い秘密兵器」水木しげる「ゲゲゲの鬼太郎」ジョージ秋山「パットマンX」「ほらふきドンドン」さいとうたかお「無用ノ介」・・・

しかし、一番衝撃を受けたのは永島慎二「漫画家残酷物語」
室蘭にも貸本屋は存在したのだが、ほとんど行ったことが無いので、貸本漫画とは無縁だった
中学二年の時、同級生の家で初めてこの作品と出合った時の衝撃は今でも覚えている

「こんな漫画があったのか!?」

青年漫画との初めての出会いだった
それまではウルトラマンのパロディ漫画「ウルトラバカ」を描いていたのが、暗い内容の「悲しみの時」とか変な漫画を描くようになったのは(笑)永島慎二の影響だ
東京に来てからも永島慎二に会いたくて阿佐が谷のぽえむや茶居花に行っていた
一度だけ阿佐が谷の駅前を歩いている永島慎二とすれ違ったのが唯一の遭遇だが・・・

今の夢は「漫画家残酷物語」の監督をやることかな(笑)



 高校なんか行くつもりの無かった僕は
まったく勉強しなかった
漫画家になることが夢だったから、勉強なんて必要ないって思っていた
ただ、漫画家になるための具体的なことは何にも考えていなかった

母の勧めで、富士製鉄を受けた
ここは働きながら高校に行かせてくれるのだ
しかし、行くつもりのまったく無かった僕は試験勉強もせず案の定落ちた

当時、僕のクラスで進学するのは半分くらいだったと思う
秋田の肉屋に就職した奴とか
東京に行った奴とか・・・
まだまだ、集団就職の雰囲気は残っていたのだと思う

進学するつもりが無かった僕が考え直したのは
手塚治虫先生の漫画家入門を読んだからだ
それには「漫画家になるのなら、高校くらい卒業したほうがいい」と書かれてあった
当時の漫画家は中卒ばかりだったような気がしていたので(失礼)
中卒でもなれると思っていたし、母ひとり子供三人の家庭では、高校に行けるような経済状態でも無かった
兄も中卒で働いていたし、中学卒業したら働くのが当たり前だと思っていた

しかし、定時制なら行ける!
兄の同級生も行っていた(啓明高校)と言うのが輪西にあった
そこは定時制専門の高校だ

入学試験前日あわてて勉強したおかげかどうか分からないけど、運よく受かった
とは言っても、募集人員より受験者のほうが少ない状況だから、受かるのが当然って感じだ

1学年1クラスで40名ほど
4学年4クラスだ、単純計算で全校生徒160名
しかし、毎年退学していく生徒がかなりいるので、4年生は半分くらいしか居ないかもしれない
働きながら4年間も通うのは大変なんですね・・・
僕も1年の10月に退学したので、大きなことは言えません(笑)

クラスの年齢構成はバラバラ
中学卒業してすぐに入学した生徒は半分弱
20歳過ぎの人もたくさん居た

中学では、ちょっと不良で威張っていた生徒も
年上の同級生に「静かにしろ!」と怒鳴られて言い返せなくて黙っている
そんな風景はおかしかった

昼間ガラス店で働いて、夕方バスに乗り定時制に通う
そんな生活は楽しかったような気がする
片思いの女の子もできたし・・・

そんな楽しい生活だったはずなのに
「東京に行こうか?」って友達の誘いに乗ってしまったのは何故だろう?
やっぱり、片思いで終わってしまった恋と、都会の生活への憧れだろうか(笑)





  • 2012.05.20 Sunday
 母はアイヌ人です

今は廃線になってしまいましたが
北海道南部にある鵡川という駅から日高町まで、富内線が走っていました
そこの旭岡という駅が祖母の住んでいた場所です
駅の周りには何も無く、祖母の家までは、川を越え、崖のような坂を登り
一時間くらいかけて歩いて行ったと思います

平屋の家には部屋が四つか五つくらいあったようですが
当時は祖母が一人で住んでいたので、使用している部屋は二つだけでした
使われていない部屋には雑然と物が積まれ、アイヌの椀などが転がっていました

祖母は口の周りに刺青を入れていました
もちろん、昭和生まれの母には刺青はありません

11人兄弟だと聞いたことがあります
祖母の家には軍服を着た長男の写真が飾られていました
僕らが知っているのは「焼酎おじさん」と呼んでいた酒臭い兄だけです

母がどういう理由で田舎を出たのかは、分かりません
僕が物心ついたころには、親戚付き合いが殆どありませんでした

僕の一番古い記憶は
北海道苫小牧に住んでいた時のもので、3歳くらいだと思います
ずっと長い間、僕の本籍は「苫小牧王子町」でした

飲み屋で働いていたころに父と出会い、結婚
男の子が三人生まれ、僕が小学二年生の時に離婚
離婚後はずっと飲み屋で働いていました
最期も飲み屋で倒れ、そのまま亡くなりました

輪西で「照美」をやっている頃
店と部屋との間にあるドアに小さな穴が開いていたので
僕は時々そこから店内をのぞいていました
小学校の担任の先生が店にやってきたことがあります
穴から覗くと、先生と母がキスをしてました
子供心に「先生もただの男なんだな」と思ったのを覚えています(笑)

東京で落ち着いたころ・・・30年前くらいかな・・・
一度東京に呼んだことがあります
帰った後も、飲み屋で働きながら東京の話をしていたそうです
それだけが、親孝行ってところでしょうか




  • 2012.05.16 Wednesday
 山田洋次監督作「馬鹿まるだし」の主人公、安五郎の左腕には「男一匹」という刺青があるが
私の父の左腕にも同じ刺青があった
映画は1964年のものだから、映画に影響されて彫ったわけでも無いだろう
戦後の流行りだったのかな?

父は大阪生まれ
北海道に流れてきて母と出会ったらしい
大阪に居られない訳でもあったのかもしれない

私が覚えている父は、小さな印刷会社で働いていた
お酒はほとんど飲めず、下戸だったらしい
小学二年の時に離婚した

離婚した後の私と兄の誕生日(私と兄は3年違いの同じ誕生日だった)
その夜、父はケーキを持って訪ねてきた
母は店に行っていたので、狭いアパートに居たのは、私たち3人兄弟と、母の愛人・・・いやパトロンかな・・・不動産屋の近田
父は近田を見つけると包丁を振り上げて切りつけようとした
父と一緒に来ていた若者が必死に止めていたのを覚えている
近田は逃げ出した

その夜が父に会った最後

兄はそれから20年以上経ち、母が亡くなってから、大阪まで父に会いに行った
父は大阪で再婚し、子供が一人いた、私たちにとっては腹違いの弟ってことになる

私は結局父には会わなかった
会いたくなかった・・・
父の葬式にも行かなかった

私に取って父は小学2年生の時から居ない存在だ




 小学5年生の時
中学生の兄貴と二人で納豆売りをした

輪西町の太平洋側は、急な山になっていた、それでも家を建てて住んでいる人はたくさんいる
室蘭は平地が少ないので、そういう所にまで家を建てるのだ
車道は通っているが、遠回りしないと上まで行けない
歩いていく場合は急な階段や坂を登っていく
店なども無いので、不便な場所だった

僕の家は飲み屋をやっていたので、町の繁華街にあった
兄貴は、前の日に家の近くで納豆と卵を仕入れ、3円から5円ほど上乗せして山の上で売ることを考えたのだ
面白そうだったので、僕も付き合った

登校前に二人で納豆と卵を抱え、山の上に行った
少しだけ売れたが、そんなにぼろ儲けってわけでも無い
二回目の時に兄貴が崖から落ちて、卵が全部割れてしまった
おまけに、風邪もひいてしまい、納豆売りはそれでおしまい
残った納豆と卵は家族で食べた(笑)

兄貴が鑑別所へ行った後
僕は小学6年から新聞配達を始めた
北海道で一番読者が多いのは、今でも「北海道新聞」だと思う・・・
僕が配達していたのは「北海タイムス」と「室蘭民報」
室蘭民報は(確か・・・)朝刊だけの新聞で、4ページしかない
でも、室蘭市内の記事は細かいので、それなりに読者は居た
一か月の新聞配達代は1000円
室蘭民報の新聞代金が500円の頃だ

当時、新聞配達をしていたのは、小学生と中学生
みんな徒歩で配達していた
冬は大変だった

中学に入る時に室蘭の外れの本輪西に越したので、中学一年生の時は新聞配達はやらなかった
二年になって同級生に紹介してもらい
今度は「北海道新聞」の配達を始めた
自転車に乗れなかった僕は、やっぱり徒歩(今は乗れます)
配達代は3000円から5000円だったと思う

室蘭では、元旦の新聞は大晦日の夜に配達していた
みんなが紅白歌合戦を見ている頃、分厚い新聞をソリに乗せて運んでいた

中学卒業まで新聞配達を続けたので(もちろん朝夕刊)
夕方放送している子供番組はほとんど見ていない
アニメも全然見る時間が無かった

日曜日には近くのゴルフ場でキャディのバイト
中学生と高校生、たまに大学生も来ていた
これは結構儲かって、一日1400円が最高の儲けだ
少ない時は700円

バイト連中の休憩室は、本職のキャディさんと同じ建物にあったので
キャディさんの着替えを見るのが、僕たち男連中の楽しみのひとつでもあった
キャディさんは若い人もいるが、ほとんどがおばさん
そんなおばさんの下着姿見て興奮していたなんて・・・若かった・・・


つづく



最近、朗読会なんて大それたこと始めたために、創作する時間が無くなってしまった・・・
せっかくブログ開設したのに勿体ないから、何か書かなくちゃ・・・
それに、最近また十二指腸潰瘍になったりして身体の衰えも感じでいるので(笑)
今のうちに書いておかなくちゃ、死んじゃうかもしれないので・・・
なんて理由で、鴫野が歩んできた道のりでも記録しておくことにしました(笑)
興味無いかもしれないけど、創作よりも面白いかも

まず、室蘭のことから書きましょう
北海道の道南地方
昔は富士製鉄と呼ばれた新日本製鉄室蘭があります
アイヌ語ではモルエラン
私は小学校の頃から上京する15歳まで住んでいました
今は母も兄も亡くなり、義理の姉が隣町の登別に住んでいるだけです

小学校1,2年は輪西町の大和小学校の通い、2年の途中で両親の離婚により、 同じ輪西の大沢小学校の転校しました
中学からは室蘭のはずれ本輪西の港北中学

大沢小学校の頃、母親は輪西の4条というあたりで飲み屋「照美」を経営していました
ボックス席がひとつに5人くらい座れるカウンター席
その店の裏に母子で住んでいました
小さな店が並んでいる一画なので、裏の住居部分には窓もありません
しばらくして、テレビの横の壁に窓が出来た時は嬉しくて窓の下に座っていたものです
でも、窓を開けても見えるのは隣家の壁
それでも、壁よりはガラス窓のほうが気持ちいい感じがしました

兄貴が少年鑑別所に行って不在の間
私と3歳下の弟は半年くらい銭湯に行きませんでした
母は仕事が忙しいので、子供のことなんか気にしません
身体検査で恥ずかしい思いをしたので、半年ぶりに銭湯に行きました
身体のあちこちに垢がこびり付いて取るのが大変でした
それも楽しい思い出・・・そんなわけないか(笑)

つづく予定


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